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大人のマナーと日本の作法
私は通勤するとき、必ず決まった乗車口から電車に乗るのだが、なぜかというと、二つ先の国分寺という駅で大量に人が降りていき、その後の車内でのポジションが比較的とりやすいのだ。 JR中央線の朝の通勤電車を経験した人ならわかると思うが、間違って人ごみに飲み込まれようものなら、朝からその日の体力のかなりを消費して必死に「立っていなければならない」。 下手をすると15分近くつま先立ちや片足立ちでその場所に留まらねばならなくなるので、車内でのポジショニングというのは、実際かなり重要なのである。 毎日同じ乗車口に乗るというと、車内の吊り広告などもだいたい毎日同じものを見るている。 そのなかで“プロミスの大人のマナー講座”を愛読しているだが、この「大人のマナー」には社会人一年生の私としては、座席時の名刺の置き方や土産物の差し出し方など、面と向かってひとには訊けないこともたまにあって、下らない週刊誌の見出しで憂鬱になるよりはずっと役にたつ情報なのだ。 それにしても、 「マナー講座」が広告アピールの手法として成立するというは現代人はそれだけマナーが悪くなったということなのだろうか。 ”電車のドアが開いたら、降りる人が先に通る”というのも常識というよりマナーであるが、たまに我れ先にとドアの端から無理やり乗ってこようとする人がいる。 朝っぱらから他人と肩をぶつけるのには、正直閉口してしまう。 “お年寄りには席を譲る” “車内では携帯電話で話さない” みんながみんな実践しているかというと、そうではない。 こういったマナーが欠如しているひとは探そうと思えばどこにでもいるものだが 電車の中で迷惑な人は昔から掃いて捨てるほどいたし、車内で遊ぶ子供を叱れない親もいたわけで、最近特に悪くなったわけでもなく「もともと良くなかった」だけの話なのである。 日本には伝統的に何においてもまず「礼儀作法」を重んじ、 それを損なうものは「無礼」の一言で殺されても何も文句はいえない、という文化的土壌があったのだが、明治時代に文明開化して西洋文化を受け入れて以来、服装や食事などの生活様式が激変してしまう。 例えば食事。 明治までは「米と味噌汁」だった日本の食に西洋から たくさんの新しい食材と調理法が入ってきた。 そこから日本人好みにつくられた「洋食」が出来上がり、 ハンバーグやオムレツなど箸で食べるようになってしまい、 その結果従来の日本食を「和食」と呼ぶようになった。 料理の種類や数によってナイフとフォークとスプーンと箸を駆使して食べるようになり、何が正しく、何がしてはいけないことなのか、日常食においての作法は明文化しにくい曖昧なものになってしまったのだ。 今現在、箸で食べ物を口に運ぶとき、箸を持たない手で受け皿の代わり(手皿)をする人がいるが、その行為は「日本食の作法」としては『不作法』にあたる。 これは元来日本食で使われる食器は、茶碗や小鉢など手に持てる大きさのものが多く、口に運ぶ際は一度その器を手に持ってから箸をつけるものであったからだ。 電車内でのことも同じだろうと思う。 それまでの移動手段は、馬か駕籠、もしくは徒歩での個人的なものだったものが、車やバス、鉄道などの登場により、必然的に赤の他人と同席しなければならないものになった。 より社会性が求められるものに変わったのだが、いつからか「礼儀作法」に取って代わって「マナー」という言葉が使われるようになった。 ためしにManner(マナー)という言葉の意味を辞書で引いてみた。 1,格式的な方法、やり方 2,(習慣となった)態度、様子 3,行儀、礼儀、作法 4,流儀、様式、手法 5,風習、風俗 かなり日本語にすると意味が広い。 「マナーが悪い」というときは『2 or 3』の意味で、 「マナー違反」というときには『1 or 4』の意味だったり、その時々で日本語にすると違ってくる。 この違いを普段から認識して使い分けているひとはほとんどいないだろう。 (わたしも調べてみるまで気付かなかった) 日本人にとってはずっと昔から曖昧な記号のままなのだ。 日本人は「その時代に生活の中に新しく入ってきたものが自分たちの社会にどう影響を及ぼすか」ということを考える習慣を“伝統的に”なくしてしまったのだろうと思う。 1860年代以降、諸外国より持ち込まれた知識、技術、風俗、習慣は明治維新後の新政府の働きかけもあり、その流れに逆らうものを駆逐しながら、急速に普及していった。 そして衣・食・住、すべてが様変わりし、モノは便利になり、移動は楽になり、その情報量たるや三百年間ほぼ同じ生活をしてきた国の人々がとても一世代で消化しきれるものではなかったが、にもかかわらず充分な教育的な説明もないままに日本国民は当時最も高度な西洋文明の恩恵をありがたく享受したのだ。 その後、マッカーサーが来るまでは戦争することに忙しく、そこから新たに「民主主義」を導入し、戦前と戦後でまたガラリと生活を変え、日本は戦争に負けた苦しみから抜け出すために、経済成長に突き進んだ。 そして今、インターネットや携帯電話の普及は、私達の生活様式を急激に変化させようとしている。 元をただせば、西洋化することを国として受け入れることが決まった時点で「新しい制度や習慣を採用した際に国民をどう教育していくか」というところまでしっかりと政府がマネージメントするべきだったのだが、 他の国からいつ侵略されるともかぎらない状況に、政府官僚は一にも二にも富国強兵に走らざるをえなかったのである。 そして日本的なものと西洋的なものを完全に分けるでもなく、完璧に日本の文化として純化させるわけでもなく、これまで、ただ自分たちに都合のよい部分だけを“イイトコ取り”してきた。 そのツケが現在の「国レベルでの社会性の欠如」や「地域コミュニティの崩壊」という文化的な地盤沈下を招いていると私は思う。 「便利なものは受け入れる」という日本人の国民性は、 経済的には大きく優位に働き、物質的な豊かさをもたらしたが 文化的には、新しいものが入る度に上辺の利便性や先進性だけを取り入れた結果、物事の本質には無頓着な底の浅いものになってしまった。 こんな子供しか育たなくなると思うと、日本の先はないかな・・・とも 未来には期待したいが、なんともやるせないものである。
by football-tt
| 2007-01-28 01:10
| コラム
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