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社会人のスタンス
先日あるインタビューを受けた。
大学の後輩たちが卒業する4年生のために、 OB連中を訪ねまわって4年生へのビデオメッセージを収録する、 という企画にのっかったのだ。。 ずいぶんとご無沙汰だった中野校舎に呼び出され カメラの前に座らされまして、インタビュー開始。 始めは、4年生への簡単な「おめでとう挨拶」をして、 その後いくつか質問をうけた。 で、その中に一つこんなものがあった。 「あなたは“社会人”とは、どんな人のことだと思いますか?」 インタビューを受けるとわかっていながら、どんな言葉を使おうかまったく考えてこなかったので、真面目な質問をうけて、少しの間考えた。 そして、出てきたのがこれ。 「“世の中の役に立っている”という自覚のある人」 とっさに考えて口から出てきた割には、当たらずとも遠からず。 これから大学を出る青少年たちを煙に巻くこともなく、われながらすばらしい回答である。 ことはついで、というわけでもないが、 こんなことがあったので、自分の社会人観について整理しておきたいと思う。 よく「社会人」の言い換えとして「自立した人」という言葉が使われるが、私は違うと思う。 自立を「一人でお金を稼いで、生活すること」、もしくは「親元から離れて一人で暮らすこと」と定義しても、それだけでは「社会人」の条件を満たしているとは言い難い。なぜなら、東京で職務上何の責任もないアルバイトを二つほど掛け持ちするだけでも、「自立」の条件を満たせてしまうからだ。 かといって、「自立」というファクターをまるまるとってしまうのも、少し違う。 では、何が欠けているかというと、それは「社会性」だと私は思う。 あまり最近「社会性」っていう言葉を使わないし、聞かない気がしませんか。 さて、社会性とはなんでしょう? 試しに辞書を引くと (1)集団をつくり他人とかかわって生活しようとする、人間の本能的性質・傾向。社交性。 (2)社会生活を重要視する傾向。 なんて載ってはいますが、 私は辞書に載っている定義がすべて正しいとは考えないヒネクレ者でして、言葉は、「使う側」と「聞く側」に共通認識があれば、どのように定義してもいいものであり、使う地域や時代とともに変化するものだと思っています。 それで私は、社会性を「長い目で見て、社会に自発的かつ生産的にコミットしていること」だと考えています。 社会人を形成するファクターとしての社会性は「そうであれば社会はもっと良くなるけれど、すぐに結果を求めてはいけないよ」という「長い目で見れるスタンス」である。これが「労働者」であれば、一日だろうと、月だろうと、ある一定期間内の労働の結果として賃金が発生するから労働にいそしむのであって、そんな面倒臭いスタンスは必要ない。 では、社会人がなぜそんなスタンスをとらねばならないかというと、それは、人は労働の中で何かを成し遂げたとき、それが社会にどのような影響を与えるかどうかは、すぐには判断できないからだ。「労働の成果」がすぐに目に見えるかたちで出ないと、その労働に価値を見出せない人が単なる労働者であり、社会人は「労働の先にあるもの」にも意識をおける人のことだと私は考えている。 現代日本では多くの人が「自分が努力すればするだけ、その分見返りがある」と信じている。この考えは、資本主義というブレーキの効きが悪い車を動かす原動力の一つであり、私もつい最近までそうおもっていたが、昨年末あたりに「自分の努力した分と等価の見返りは返ってこない」という考え方に変えた。 世の中、理不尽なことはいくらでもある。 いくら必死に働いても、自分が望むお給料をいただけないこともある。ていうか、むしろ圧倒的にそちらの境遇の人の方が多い。それは、業種や場所によって「労働」に支払われる対価の基準が様々だからなのだが、それでも世の大人が働く大義名分は、「自分が所属する社会をより豊かにするため」である。 人類がここまでの発展を遂げられたのは、他の動物と違って、自分に都合の良い社会を形成し、そこで生きるためには「他人に奉仕する」うことが生存戦略上有利だ、とわかっていたからだが、最近は資本主義やグローバリズムのおかげで、“自分も少しは世の中の役に立っている”という社会人のスタンスを持たない人が増えているように思う。 実はこれが人類滅亡の前触れだったりしたり、しなかったりするのかも・・・
by football-tt
| 2008-03-14 03:00
| コラム
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